那珂川町議会議員「春田ともあき」公式サイト
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新聞記事

子どもの頃、父は家庭を顧みない企業戦士で仕事一筋、そして母は結核を患い入院していたということもあり、私は3歳から15歳までの幼少の時期、ずっと祖父母に育てられていました。

その為か、ついたあだ名が「みなしごハッチ」

少し学習障害があったので非常に育てにくい子どもでした。
幼稚園は中退!小学校ではいつも何かあると犯人扱い!

今でも鮮明に覚えているのは学校の教室の窓が割れたときのことです。当時、私は小学5年生でした。誰がやったか分からないので担任は私ではないかと取り調べ始めました。

「やってない」と言うのに全く信用してもらえません。

頭に来た私は、担任の机の上にあったテープカッターを手に取り、違うガラスに投げつけ割ってしまうことで「ほら割った」「これでいいやろう!」と啖呵切りました。

商店街で売り出しがあるが、祖父母に頼むと嫌がれるので、小学校のお昼休み時間にコソッと抜け出し買い物に行っていました。誰かがチクって先生に怒られても、「何が悪いと?」「出てはいけませんとは書いていない」・・・

子ども会では両親が滅多に出席しないがゆえに邪魔者扱いされていました。しかし当時入部していた野球チームでは監督の庇護の元、立派な野球バカに成長、しかし保護者からは嫌みの連発を受け「何糞!」と思ったことは数知れません。

このような状況が続き、中学校の終わりごろには立派な悪そう坊主です。中学3年生の時、母の病状が安定し退院したため、一緒に暮らし始めるものの生活があわず高校生で家出をし、家に帰らずアパートを借り、バイトで生計を立てつつ一人暮しを始めます。

学校が終わってガソリンスタンドでバイトし、さらに続けて飲食店(スナック)でバイトというハードスケジュールの連続で、高校生活は休みと睡眠学習の間に過ぎ去りました。

15歳で保護観察、そして20歳前でやっとそれが空けたくらい、やった悪事の数々はとてもとても恥ずかしくてお話できるようなものではありません。

そんな私が収監されなかったのは、いつも周りにいた大人が時に叱ってくれたり、時に優しく手を差し伸べてくれたからです。たくさんの恩人(かっこいい大人)が私の育ての親です。

子どもながら社会の厳しい面辛い面を見て、子どもながら社会の温かい面優しい面を見て体験して私は大人になりました。

18歳の時、知り合いのおじさんに言われました。このままでは中途半端、数か月に及び真剣に私を諭してくれました。

私は二度と人様に迷惑をかけまいと決め真面目に働く事を決め、私の第二の人生が始まりました。

30歳の時、私の大恩がある方の死を知りました。恩返しをしたかったが出来ませんでした。
この時私は心に決めました。私はこれから人様のお役に立つ人生を送ろうと・・・。

そして私の第三のの人生が始まったのです。

私は様々なボランティア活動を積極的に行うようにしました。最初は青少年問題に友達と取り組みボランティア団体を立ち上げ、今ではミャンマーに野球場を建設したり里親制度を立ち上げたりしています。その後地域活動にも携わり、皆さまがご存じのような活動が出来ています。

また、活動を通して学んだことと、様々な学識者との交流によって学ばせていただいた経験を元に、現在では精力的に講演活動を行っています。

しかし、ボランティア活動を懸命に行えば行うほど、ボランティアの域では達成できない、あるいは達成に大きな時間と労力を要する、いわば「限界」を感じてきました。

子ども達を取り巻く社会問題、高齢者が安心して暮らすことができない老後問題、将来の不安から安心して子育てに打ち込めない若い世代、働いても働いても見えてこない景気問題・・・。

国政レベルの問題となっているこれらの諸問題を全てを一個人が解決するのは不可能、しかし地域社会においでは、たとえ一個人であっても懸命になることで様々な問題解決に具体的な挑戦できるのではないか・・・そのような思いから今回、町民の皆様に手をあげ御支持頂きました。

私は私で出来る事を真剣に取り組みます。
今まで私を育てて頂いたたくさんの恩人に感謝し恩返しをさせて頂きます。
私につらく当った人が少しでも優しい大人になるように致したく働きます。